「筑紫哲也ニュース23」は、「JNNニュースデスク」を引き継ぐ形で、1989年10月の番組改編からスタートした。
逆算すると、井上陽水がこの新番組のテーマ音楽の制作をしたのは同年の夏だったと推測される。
番組冒頭を彩るジングル(短いサウンド・ロゴ)を作曲するにあたり、陽水はなぜかファルセットの効いた分厚いコーラスをイメージした。
そして、そのコーラスアレンジをかの大瀧詠一氏に依頼したというのも、その時の「夏」という季節感が後押ししたと考えるのは少々うがった見方だろうか?
とにもかくにも、陽水は初対面となる大瀧詠一を渋谷にある自らの事務所に招き、コーラスアレンジの打ち合わせをすることになった。
その時にシャイな大瀧がその場に同席を頼んだのが、ナイアガラレコードに関わっていた川原氏だったのだ。
大瀧詠一と川原氏の関係も、それはそれは長くて深い。
とてもここで簡単に説明し切れるものではないので、詳細の紹介は別の機会を待つことにしよう。
ただここで言えるのは、コーラス・アレンジについての川原氏の力量を大瀧が高く評価していたという事実。
そして、それが同席を頼んだ第一の理由だったと見て間違いないだろう。
さて、陽水と大瀧の打ち合わせは、川原氏という潤滑剤を得て滞りなく終了する。
川原氏は後にこの時のことを、「陽水とは“考え方のOS”が同じだという事が、すぐに判ったんだ」と彼らしい説明を私にしてくれた。
つまり、二人の音楽観のOS(オペレーション・システム)は、共にビートルズだったのだ。
このOSを共有する者同士は、コード進行、メロディー、リズム、リフ、ダビング楽器など音楽的な意見交換のほとんどを、ビートルズを下敷きにして行うことが出来る。
それは、決してすべての音楽をビートルズのようにしてしまうという意味ではない。
ビートルズっぽく“なく”しようよ、という応用も可能なので、このOSはあらゆる場面で非常に有効となるのだ。
細かく言えば、川原氏のOSのバージョンは「マッカートニー型」、陽水のそれは「レノン型」だったと勝手に想像しておこう。
そしてこの場が、陽水が川原伸司というプロデューサーに信頼を寄せる礎を築くことになったのだ。
さて、いよいよそのレコーディングの当日。
ここで、両者の信頼関係を決定的にする事件が起きる。
あろうことか待てど暮らせど、当の大瀧本人がスタジオに現れなかったのだ。
もちろんそれは悪意があってのことではなく、大瀧は「川原氏と陽水にすべてを委ねる」という確固たる意思を、スタジオに出向かないという方法で示したのだろう。
この真夏のセッションが、後に「少年時代」を生むことになるのだから、大瀧詠一はその影のフィクサーと言えるのかもしれない。
確かな関係を築くきっかけになった偶然の出会いは、次の新たな展開を必然的に生んでいく。
陽水は「ギャラリー」という、マイナー、アップテンポの曲を以前に書きストックしていた。
“だって私はギャラリーずっと恋を夢見ているだけの…” というサビが印象的な曲。
荻野目洋子にこれを歌って欲しいと考えていた陽水は、コーラス・セッションで出会った川原氏にその橋渡し役を依頼する。
かつて川原氏が、荻野目洋子の所属するビクターレコード制作3部の一員だったというのがその理由だった。
私事で恐縮だが、1985年の「フラミンゴinパラダイス」から1989年の「ヴァージ・オブ・ラブ」まで、シングル10作品とアルバム6作品、荻野目洋子の制作を担当させて頂いたことがある。
この間の濃密な制作経験は得がたい財産として、私の中に今でもしっかりと蓄積されている。
そして、その多くは彼女の所属するライジング・プロダクションの平哲夫社長の、作品について一切の妥協を許さない一流プロデューサーとしての揺るがないポリシーから学んだといっても過言ではない。
さて川原氏は、当時私の後任の荻野目洋子の制作担当だった野沢孝智(後の、SMAPの担当ディレクター)を伴い、その平氏のもとに「ギャラリー」を持ち込み、シングルとしてレコーディングすることに成功する。
当然のことながら、平氏はB面となる楽曲を井上陽水に書き下ろしてもらうことを望んだ。
その一言で生まれたのが、あの名曲「少年時代」だと言ったら、あなたは信じてくれるだろうか?
この項続く…
Yoko Oginome / Gallery
荻野目ちゃんのトークの中に、注目のエピソードが…