Dire Straits
もしも、誰かのギター・テクニックが手に入るとしたら…。
前回は、コステロの声が欲しいなどとワガママを言わせてもらったが、今日は大好きなギタリストの話をしよう。
わたしのギター・アイドルは、エリック・クラプトンでもジミー・ペイジでも寺内タケシでもなく、実はマーク・ノップラー。
明日になればまた気が変わるのかもしれないが、少なくとも今日の気分ではそうなのだ。
ストラトキャスターをまるでクラシック・ギターのようにピックを使わずに爪弾く彼のスタイルは、比べる者がいないほどユニーク。
イフェクターに頼らない透き通った美しい音色なのに、猛烈にロックを感じてしまう。
しかも自らディランばりのボーカルを歌い、それに合いの手を入れるように独創的なリフを奏でる。
したがって、4小節ブロックの前半が歌、後半がギターという繰り返しの構成になるのだが、これが異常にカッコいい。
それは、日本民謡の歌い手が、“はぁ~、津軽ぅ~名物ぅ~”と歌ったあとで、“ああ、どうした、どした”と自分で合いの手をいれるようなもので、完全に自己完結的な世界。
一人でほとんどやりますけん、バンドのみんなはリズムだけ刻んどって…みたいな。
アーティストたるもの、このぐらい自己中心的でいいのではないだろうか。
しかも、彼はきれいに韻を踏んだ難解な詩を書く。
わたしは、このサルタン・オブ・スウィング(原題)という歌を、悲しいかな「悪魔の感謝祭」みたいなイメージでずっととらえてしまっていた。
よく考えれば、サルタンとサタンの勘違いというお恥ずかしい話なのだが。
実際には、サルタン・オブ・スウィングというジャズ・バンドがオーディションを受けた時の滑った転んだを歌ったものらしい。
話は少し脱線するが、英語の詞というやつは、この“韻”というやつのせいで内容がたまたまアートっぽく転んでしまうものなのだと思う。
中国語も同じような現象が置きやすい言語で、うらやましい限りだ。
語尾合わせのために苦し紛れに選んだ単語のせいで、偶然にも内容が芸術的になってしまうことなど、日本語では考えられない。
最近では、ジョイマンがお笑いに取り入れたりしているが。
おっと、ギタリストの話だった。
わたしは、マーク・ノップラーのギターの音色がシャドウズに似ていると昔から思っていた。
ダイア・ストレイツとシャドウズを比べるなとお叱りを受けそうだが、わたしはマーク・ノップラーは“アパッチ”にインスパイアされて“悲しきサルタン”を作ったのだと今も信じている。
本当かどうかは本人に訊いてみるしかないが、聴き比べるとそんな気がしてこないだろうか?
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M.Knopfler & E.Clapton-Sultan of Swing The Shadows - Apache