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2009年08月24日

井上陽水 『少年時代』<最終回>

text by ワダマサシ

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かくして「少年時代」は、アルバム「ハンサム・ボーイ」に一ヶ月先行する形で1990年9月21日に8cmシングルCDとして初めて世に出る。カップリングは、同じく平井夏美との共作「荒ワシの歌」だった。
映画「少年時代」は、この年の日本アカデミー賞最優秀作品賞を獲得するほど成功を収めたが、主題歌の方はオリコンのヒットチャートでも最高位20位程度。
この時点では爆発的なヒットとはならず、陽水の代表作という評価を得るほどのセールスを上げたのは翌年の夏以降のことだったのだ。

ずば抜けた名曲とは、“エバーグリーン”になり得るポテンシャルを元々秘めているものなのだろう。
世の中の方がこの曲をもっと必要としていることを証明するように、「少年時代」は軽々とセカンド・チャンス、サード・チャンスを次々に我が物にしていった。
まずは、1991年ソニーのハンディカムのCMソングに採用される。
「きょうは、明日の思い出です」というキャッチコピーが「少年時代」の持つ世界観とあいまって多くの視聴者の支持を獲得、この時点でシングル・チャートの4位まで駆け上がる。
同時期にTBS系で放映された「ギミア・ぶれいく」内の“ドミノ倒し特集”のエンディングテーマにも使用され、「少年時代」イコール「夏休み」というイメージを一層定着させることになった。
そこから毎年着実にチャートに顔を出すロングセラーの地位を欲しいままにし、1997年に日本レコード協会のミリオンセラーシングルに認定された。
奇しくもそれは、発売から8年目の真夏の出来事だった。
それ以降も「夏休み」の景色を代表する曲として、2002年発売のPS2用のゲームソフト「ぼくの夏休み2」の主題歌(歌:沢田知可子)など多くの露出機会を得て、あらゆる人々から愛され続けている。

もしも最初に与えられた役割のまま、つまり荻野目洋子のシングルのカップリング曲として発表されていたならこの結果は得られなかったはずだ。
詩はもちろんのこと、おそらくタイトルも「少年時代」ではなかったろう。
返却した名も無きデモテープが「少年時代」という名曲に姿を変え、後に圧倒的な評価を獲得したことを、当の平社長はどのように感じているのだろうか?
生き馬の目を抜くような強(したた)かさが求められる音楽界において、一度は受け取った楽曲であることを根拠に、成功の後に権利主張をされてもおかしくないケース。
私はその辺りの生臭い事実関係について、川原氏に訊ねたことがある。
その答えによれば、平社長は一度その手を放れてしまった金の卵に対して、温かく拍手を送り続け一度も未練がましい話はしてこなかったそうだ。
名曲が誕生した背景には、それを可能にした様々な人間のドラマが必ず隠されている。
「少年時代」の成功物語の中の最も重要なバイプレーヤーは、もしかしたら平社長だったのでは?
そう問いかけた時に、川原氏が我が意を得たように頷いたことが、私には最も印象深かった。


<了>


posted by 「HEART×BEAT」事務局 at 02:56| Comment(0) | 一曲入魂 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年08月17日

井上陽水 『少年時代』<5>

text by ワダマサシ



B面候補曲としてデモテープを提出し終わった後に、「あの曲がどうしても気になる…」と言い出したのは陽水の方だった。
ポップアイドルに限らずシングルのカップリング曲は露出の機会もなく、どんなにいい作品であっても数合わせのような意味しか持たないケースが多い。
陽水には、あの曲がそんな立場のまま埋もれてしまうことになぜか強い抵抗を感じたのだろう。
それは、アーティストとしての独特な勘としか言いようがない。
「なんとかあの曲を返してもらえないものだろうか?」
そんな申し出が、川原氏を通じてライジング・プロの平社長のもとに届けられた。
平社長は書き下ろしの別曲を提出することを条件に、作家サイドのわがままな要求を快く承諾してくれたという。
このことが「少年時代」の誕生への運命の分岐点となったのだ。
代わりに平井夏美(川原氏)との共作で書かれたのが「ON BED」という曲。
なかなかの秀作ではあったが、1990年6月27日発売のシングル「ギャラリー」のB面に収録されたのみで、その後荻野目のオリジナル・アルバムにも収録されることはなかった。

かくして再び陽水の手元に戻ってきた名も無きデモ・テープは、歌い出しの“夏が過ぎ 風あざみ…”などごく一部を除き“♪ダララルル〜”というスキャットのみという未完成の状態のまま、しばらくストックされることとなった。
そんな折、陽水の元に映画の主題歌制作のオファーが舞い込む。
依頼者は、漫画家の藤子不二雄A(安孫子素雄:写真)さん。
雀卓を共に囲む、陽水のオフタイムの友人の一人だった。
この依頼が作品の方向を決める最後の指針になる。
映画化されるという作品は、戦時中に東京から疎開してきた少年が疎開先の仲間たちと心を触れ合うという、柏原兵三の小説「長い道」を原作とする漫画。
そして、そのタイトルが「少年時代」だったのだ。

映画主題歌という役回りを与えられた未完成のデモ・テープは、陽水の言葉の魔法により「少年時代」という稀代の名作として完成する。
散りばめられた“風あざみ”“宵かがり”“夢花火”などの言霊が、あまりにも美しく光を放つ。
いままで何人の人が辞書を紐解き、その意味を知ろうとしたことだろう?
それらは全て陽水の造語なのだが、既成の単語よりも遥かに鮮やかに儚い夏の思い出を蘇らせる。

必要にして充分なさじ加減に装飾を抑えた編曲も、作曲と同じ井上陽水と平井夏美。
ビートルズというOSを共有する二人ならではの完成度の高い仕上がりになっている。
ちなみにストリングスアレンジは星勝、ピアノをプレイしているのは来生たかお。
彼らもまた同じOSの持ち主である。
完成形のイメージを参加者全員が共有している作品だけが持つ隙のない凝縮感が、イントロからエンディングにまで漂っているのは間違いなくそのせいなのだ。


最終回へ続く…



映画「少年時代」より
posted by 「HEART×BEAT」事務局 at 07:59| Comment(0) | 一曲入魂 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年08月13日

井上陽水 『少年時代』<4>

text by ワダマサシ



荻野目洋子の新曲「ギャラリー」の制作が佳境に差し掛かったある日、そのスタジオのピアノブースで川原氏と井上陽水の作曲セッションがいつものように始まった。
その日の作業の目的は、まだ決定していなかったシングルのカップリング曲を作ること。
様々なコードのバリエーションを試したあとで、マッカートニーが乗り移ったような川原氏の指先は、“Let It Be”を思わせるイントロを奏で始める。
“夏が過ぎ 風あざみ…”
メロディーとほぼ同時に詩を伴って陽水の口から零れ出たのがあの美しい歌いだしの部分だった。
そのモチーフを8小節の端正なAメロにまとめ上げたあとに、川原氏が選択したのは“イエスタデイ”のBメロにも通じる“影のある”コード展開。
“夢が覚め 夜の中 長い冬が…”
このBメロのきっかけのメロディーをさらに広げ、新たにサビにあたるCメロを作る方法もあったろう。
むしろその方が、あの当時の作曲法としてはずっと自然だったはずだ。
しかし二人が選択したのは意外にも、Bメロを8小節だけ展開させたあと、非常に珍しい3小節の終止形でコンパクトに収め、戻ったAメロにサビの役目を兼ねさせることだった。
その結果、Bセクションは8小節+3小節、つまり11小節というイレギュラーな形になっている。
4の倍数で組み立てるのが当然とされるポップスの王道の構造を覆し、なおかつ一切不自然さを感じさせないという点で、このBメロは“イエスタデイ”のAメロ(7小節)にも匹敵するものだと私は思っている。

全体がまとまったところで、のちに“少年時代”として日本中の人に愛されることになるこの名曲は、ピアノブースに持ち込まれた家庭用ラジカセで初めて録音された。
ラジカセのRECボタンを押したのは、荻野目洋子の担当ディレクターだった野沢孝智だった。
このファーストテイクは今も残っているそうだが、箇所箇所で最終完成形の詩の欠片がすでに入っていたという。

このデモテープは、当然のことながら平哲夫氏(荻野目が所属していたライジング・プロダクション社長:当時)はもちろん、荻野目サイドのスタッフの手に渡ることになる。
しかし、なぜか「ギャラリー」のB面としてレコーディングされることはなかった。
その理由に、この曲の不思議な運命に関わった人たちのドラマが隠されていた。


この項続く…


少年時代 / 沢田知可子 「ぼくのなつやすみ2 」テーマ曲
ほかにも忌野清志郎、佐藤竹善、宇多田ヒカル、
夏川りみ、岩崎宏美、中西保志など、多くのアーティストがカバーしている。


Paul McCartney Yesterday
7小節のマジック。
posted by 「HEART×BEAT」事務局 at 10:34| Comment(0) | 一曲入魂 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年08月10日

井上陽水 『少年時代』<3>

text by ワダマサシ




「筑紫哲也ニュース23」のジングル録音をきっかけに始まった川原氏と井上陽水の信頼関係は、荻野目洋子のシングル及びそのカップリング曲の制作というミッションを得て次のフェーズへと進む。

その当時、陽水は自身にとって14作目(ライブ盤を除く)となるオリジナルアルバムの制作に取り掛かっていた。
1984年暮れにリリースされたセルフ・カバー・アルバム「9.5カラット」が自身にとって2作目のミリオンセラーを記録したのを受け、満を持して制作した次作「Negative」は、予想に反し期待したような評価を得られなかった。
その轍を踏まないために、陽水は制作過程に新たなエレメントの注入を必要としていた。
ビートルズという同じOSを共有しながらも、そのバージョンが異なる川原氏は陽水にとって正にパートナーとしてうってつけの存在だったのだ。
「ギャラリー」のレコーディングという機会を通じ、スタジオでしばしば顔を合わせることになった二人は、ごく自然に共同で曲を作るようになった。
かつて青山スタジオのリハーサルルームで、川原氏の作曲場面に立ち会っているわたしは、その時の二人の状況が目に浮かぶ。

スタジオのコントロール・ルームだけで作業が進んでいるとき、付属しているだだっ広い録音スペースは誰もいない体育館のように放置される。
薄暗い照明、心地よい防音、完璧に調整されたグランド・ピアノ――川原氏にとって、いつもそこは極上の作曲スペースだった。
ある日、川原氏は陽水の前で「Till There Was You」を弾く。
実はこの曲の作者は、レノン-マッカートニーではなくメレディス・ウィルソン。
ブロードウェイミュージカル「The Music Man」のために書かれたものだった。
原曲はオーケストラをバックにした典型的なミュージカル仕立てのスローなラブバラード。
それをラテン・ビートのポップスに料理したのは、ポール・マッカートニーのアイデアだったのだろう。
そのためビートルズの楽譜集にも載る機会がなく、ディミニッシュや四度マイナーを多用したスタンダード的な 美しいコード進行は、ビートルマニアの間でも意外に知られていない。
川原氏はそれをモチーフに美しいコードを奏で、陽水はその音景色に導かれるようにある佳曲を共同で作る。
その曲の名は、「Tokyo」。
井上陽水のアルバム「ハンサム・ボーイ」の6曲目に収録されているこの曲が、最初の二人の共作曲となった。
「少年時代」の生まれる直前のことだった。



この項続く…

.....
The Beatles / Till ThereWasYou....................井上陽水/ Tokyo






posted by 「HEART×BEAT」事務局 at 09:04| Comment(0) | 一曲入魂 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年08月04日

井上陽水 『少年時代』<2>

text by ワダマサシ



「筑紫哲也ニュース23」は、「JNNニュースデスク」を引き継ぐ形で、1989年10月の番組改編からスタートした。
逆算すると、井上陽水がこの新番組のテーマ音楽の制作をしたのは同年の夏だったと推測される。
番組冒頭を彩るジングル(短いサウンド・ロゴ)を作曲するにあたり、陽水はなぜかファルセットの効いた分厚いコーラスをイメージした。
そして、そのコーラスアレンジをかの大瀧詠一氏に依頼したというのも、その時の「夏」という季節感が後押ししたと考えるのは少々うがった見方だろうか?

とにもかくにも、陽水は初対面となる大瀧詠一を渋谷にある自らの事務所に招き、コーラスアレンジの打ち合わせをすることになった。
その時にシャイな大瀧がその場に同席を頼んだのが、ナイアガラレコードに関わっていた川原氏だったのだ。
大瀧詠一と川原氏の関係も、それはそれは長くて深い。
とてもここで簡単に説明し切れるものではないので、詳細の紹介は別の機会を待つことにしよう。
ただここで言えるのは、コーラス・アレンジについての川原氏の力量を大瀧が高く評価していたという事実。
そして、それが同席を頼んだ第一の理由だったと見て間違いないだろう。

さて、陽水と大瀧の打ち合わせは、川原氏という潤滑剤を得て滞りなく終了する。
川原氏は後にこの時のことを、「陽水とは“考え方のOS”が同じだという事が、すぐに判ったんだ」と彼らしい説明を私にしてくれた。
つまり、二人の音楽観のOS(オペレーション・システム)は、共にビートルズだったのだ。
このOSを共有する者同士は、コード進行、メロディー、リズム、リフ、ダビング楽器など音楽的な意見交換のほとんどを、ビートルズを下敷きにして行うことが出来る。
それは、決してすべての音楽をビートルズのようにしてしまうという意味ではない。
ビートルズっぽく“なく”しようよ、という応用も可能なので、このOSはあらゆる場面で非常に有効となるのだ。
細かく言えば、川原氏のOSのバージョンは「マッカートニー型」、陽水のそれは「レノン型」だったと勝手に想像しておこう。
そしてこの場が、陽水が川原伸司というプロデューサーに信頼を寄せる礎を築くことになったのだ。

さて、いよいよそのレコーディングの当日。
ここで、両者の信頼関係を決定的にする事件が起きる。
あろうことか待てど暮らせど、当の大瀧本人がスタジオに現れなかったのだ。
もちろんそれは悪意があってのことではなく、大瀧は「川原氏と陽水にすべてを委ねる」という確固たる意思を、スタジオに出向かないという方法で示したのだろう。
この真夏のセッションが、後に「少年時代」を生むことになるのだから、大瀧詠一はその影のフィクサーと言えるのかもしれない。

確かな関係を築くきっかけになった偶然の出会いは、次の新たな展開を必然的に生んでいく。
陽水は「ギャラリー」という、マイナー、アップテンポの曲を以前に書きストックしていた。
“だって私はギャラリーずっと恋を夢見ているだけの…” というサビが印象的な曲。
荻野目洋子にこれを歌って欲しいと考えていた陽水は、コーラス・セッションで出会った川原氏にその橋渡し役を依頼する。
かつて川原氏が、荻野目洋子の所属するビクターレコード制作3部の一員だったというのがその理由だった。

私事で恐縮だが、1985年の「フラミンゴinパラダイス」から1989年の「ヴァージ・オブ・ラブ」まで、シングル10作品とアルバム6作品、荻野目洋子の制作を担当させて頂いたことがある。
この間の濃密な制作経験は得がたい財産として、私の中に今でもしっかりと蓄積されている。
そして、その多くは彼女の所属するライジング・プロダクションの平哲夫社長の、作品について一切の妥協を許さない一流プロデューサーとしての揺るがないポリシーから学んだといっても過言ではない。

さて川原氏は、当時私の後任の荻野目洋子の制作担当だった野沢孝智(後の、SMAPの担当ディレクター)を伴い、その平氏のもとに「ギャラリー」を持ち込み、シングルとしてレコーディングすることに成功する。
当然のことながら、平氏はB面となる楽曲を井上陽水に書き下ろしてもらうことを望んだ。
その一言で生まれたのが、あの名曲「少年時代」だと言ったら、あなたは信じてくれるだろうか?


この項続く…


Yoko Oginome / Gallery
荻野目ちゃんのトークの中に、注目のエピソードが…
posted by 「HEART×BEAT」事務局 at 12:45| Comment(0) | 一曲入魂 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする